中小企業淘汰論が勢いを増しています。
「日本のために中小企業は半分まで減っていい」との主張で、デービット・アトキンソンさんが大々的に提言し、賛同する人が増えています(最新作「国運の分岐点、中小企業改革で再び輝くか、中国の属国になるか」(講談社+α新書)も売れているようです)。
日経ビジネスの11月25日号も「中小企業本当に要らない?」という特集を組んで、アトキンソンさんの主張や好むと好まざるとにかかわらず、向こう1年に31万社(140万社の5分の1程度)が廃業する危機に陥っている(帝国データバンク)とのことを伝えています。
経産省によれば中小企業の1/3が廃業予備軍で、計算上は2025年までに累計で22兆円のGDPと650万人の雇用が失われるとのことですが、これば真実であれば、淘汰論を持ち出すまでもなく、自ずと、生産性の低い中小企業は減って、日本全体の生産性が上がることになるのではないかということになりますね。生産性の高い儲かっている企業は、後継者がいたり、会社を譲ってくれということが多いでしょうから問題はありません。
なので、生産性の低い、あるいは、生産性の向上の期待できない中小企業を延命する策に税金を投じるよりも、廃業支援をした方が、世の中のためになるということになります(8月20日の私のブログでも書いた通りです・・)。
私は、平成の始めのころに、所属していた金融機関から中小企業庁の調査課に派遣されていたのですが、隣の中小企業庁総務課の課長補佐が、日課のように、調査課のM課長(ちなみに後任は北海道知事4選の後、現参議院議員のT課長でした・・・余談)のところに来て、「なぜ中小企業を支援する必要があるのか?」という書生的な、青臭い議論をしていました。
通産省のキャリアの人たちは、中小企業庁や資源エネルギー庁を含んで異動しますので、初めて中小企業庁に来た人も多いのですが、おそらくこの課長補佐もその一人で、「そもそも論」の原論的議論を、調査課長(調査課長は年次が近い)に吹っ掛けてきていたのです。課長はうんざりしていましたが、なかなか聞いていて面白かったです。
「イノベーションに貢献している」「中小企業の設備投資は大企業と比べ景気に対し先行性がある(率先してリスクをとっている)」「多様性こそ大事」とかまあ、いろんな議論が、中小企業白書を作る前にありました。当時から「中小企業弱者論」や「二重構造論」は誤りで、「努力する活力のある中小企業を支援するのが、中小企業政策だ」という方向性は出ていたように思います。
商業サービス業を担当していた私は、中小の商業者も大事であるということを証明するために、イギリスの学者に手紙を書いた覚えがあります。イギリスでは、中小の小売業者が早期に淘汰されていましたので、消費者にとって不便はないかということで(返事をいただきましたが内容は覚えていません)。実際、数年前にロンドンに行きましたが、街を歩いていてもチェーン店ばかりで多様性はないなと思った記憶があります。ただ、チェーン店同士も競争をしていますので消費者にとっては必ずしも悪くないのかもしれません。
日経ビジネスでは、釧路市の例を挙げて、中小企業がなくなったら街が消滅したという記事を書いていますが、街の衰退を中小企業論だけで議論するのは無理があるように思えます。
脱線が長くてすみません。
要は、この中小企業淘汰論は、前からずっと議論されてきていましたが、現在では人口減少で雇用の受け皿は十分にあるので、いよいよ淘汰論の説得性が増してきているということです。
さて、私は、コンサルタントとしてまた金融機関勤めのときに、大企業に製品を納入している中小企業で、値段が合っていないのに、がんばっていて、かつ赤字という会社を、嫌というほど見てきています。中小企業の生産性の問題は、全体のデフレの中で、大企業の購買単価が上がらないことに大きな原因があると思います。昔はそれでも数量が増えていたのでなんとかなっていたんですが、止まってしまいました。中小企業の側でも、値段が合わないのに、他社に仕事を取られることを気にして、安い値段で無理を続けることが、低生産性を生んでいます。もちろん自己努力が一番大事ですが、がんばって値上げしてもらうか、取引を止めるか、の二つに一つの選択も大事な気がしてなりません。
こう考えていくと、「限界利益が黒なら仕事を取るべき」という短期のセオリーの使い方を間違い、中長期での大きな決断を先送りすると、ずっと低生産性の憂き目に合う原因になってしまうので、気をつけなければならないと改めて思います。